さてさて、第3回目の木鶏会を開催しました。
土曜日の朝8時から。なんて素晴らしい一日の始まりではありませんか。
今日は立ち上げメンバーのそれぞれが1人ずつ誘った新メンバーを加えての開催。
年齢も立場も異なるメンバーの視点からは、学べることが多かったですね。
今回は、
国際コミュニオン学会名誉会長鈴木秀子さんの連載、
人生を照らす言葉(連載139)
を読んで感想文を書きました。以下に掲載しておきます。
記事の内容をご存じない方は、感想だけを読んでもピンと来ないと思います。
私が今回の記事から得た一番の気づきは、
『こちらから相手(または出来事)の中にある「美しいもの」を見出すつもりで人に対する(事と向き合う)ことが、私にはもっと必要だ』
ということでした。
<以下、感想文になります>
どこにかに「ほんとうに美しいもの」はないのか
そう大きく書かれたタイトルが、不覚にも目に留まった。
ちっ。
かすかに引き攣った顔で軽く舌打ちをしながら、宝物を探す子どものように目を輝かせて、貪るように読み入ってしまった。
おい、おまえ、まだ、そんなもの探してんのかよ。
あるかよ、そんなもん。バカじゃねぇの。
は?おまえなにいってんの?
あるよ。あるに決まってんだろうが。
あれも、これも、あとは、ほら、、、
いやいや、いい歳してバカいってんじゃねぇよ。
おまえの目は節穴かよ。かっこわりぃ。いや、まじダセェは。
そこまでいくと病気だよ。かわいそうになるねぇ。
心の声が忙しくはあったが、しかして、美しいものはやはりあった。
本文中に登場する熱心に神父の説教を聴く耳の聞こえない老婆と、同じくある講演を聴く耳の聞こえない男。彼らから向けられた真摯な眼差しは神父の感謝の気持ちを産み、講演家を名手と呼ばれるレベルまで引き上げた。
この記事の書き手はそれらを(ここではつまり感謝の気持ちや成長意欲のことだが)、「美しいもの」だといい、老婆と男の姿勢を美しいと言わなかった。
つまりは、見えずとも心の目を開けば見えないものまで見え、聴こえずとも心の耳を傾ければ真実が聴こえてくる、といったような美談を語りたいわけではではない。100歩譲ってそうだとしても、そのとき見えるもの、聴こえるものは、「美しい」とか「醜い」とか、単純に切って分けられるものではないはずだし、多分に量子力学的な何かがそこにはあると感じた。
然るに、為すべきはただひとつ。
見出す。引き出す。つまりは美しいものは創り出すことだ。自分の外、内を問わず、美しいものは意思を持って創るもの。
改めて、そんなことをこの記事は教えてくれた。