キャリぷらスタッフブログ「全員正解」

キャリぷらスタッフのお仕事奮闘記。仕事は誰でも必ずできる!意識高くなくていいから仕事ができる社会人を目指します。

ABOUT ME "HONOKA"

キャリぷらスタッフブログ「全員正解」を読んでくださっているみなさま、初めまして。ほのかこと髙田穂乃香です。2023年4月、日本キャリアセンターに入社いたしました。

今回は、月並みなトピックではありますが…初投稿なので「自己紹介」とさせていただきます。どうか、最後までお付き合いください。

タイトルに薄っすら海外感を匂わせてみましたが、私の経歴をお話するにあたり、田辺さんにどこから書こうと相談してみたら、幼少期は父親の転勤に伴い、長らく海外で生活をしていた私に「穂乃香の経歴の中で、おもろいところはその時期や!」とおっしゃっていただいたので、海外期にフォーカスして書きます。


1993年三重県松阪市松阪牛の名産地)で生まれ、父、母、兄、私のごくごくありがちな家族構成の元、平凡な暮らしをしていました。
毎日、自転車で田舎道を男の子達の先頭をきって走りまくり、バスケットチームに所属していたので暇さえあればボールをつき、鍛冶屋をしている祖父が校庭の遊具を修理に来ている日には軽トラの荷台に乗って帰り、田舎ならではの上り坂だらけの下校道を少し楽してみたり…まさに、楽して帰ったとある日。

当時小学二年生の私の下校時間には家にいるはずのない父が居て、その横には、不敵な笑みを浮かべている母が居て...「ほのにとってはあまり嬉しい話じゃないかもしれへんけど聞いてな」と前置きがあり、伝えられたのが『3か月後には海外に行く』という内容でした。

正直あまり記憶がありませんが、とにかくあっという間に3か月が経ち、田舎者の私達にとって海外?遠!すご!といった雰囲気の中、近鉄松阪駅に親戚や友達家族が大勢が集まり、とっても盛大に見送られ予定通り初渡航→香港へ移住しました。

名物「香港百万ドルの夜景」子供ながらにとってもきれいで異世界だと感じました。街中に広がる独特の匂いと、人々の声の大きさには衝撃を受けました。香港に移住後、日本人学校という選択肢もある中、当時、英語はハローしか分かっていない私にとっては親の横暴なふるまいと感じながらも、放り込まれた現地のカナダ系インターナショナルスクールへ3年間通いました。それでも3年も通うと子供の吸収力は凄まじく、気づけば英会話に不自由を感じることもなく、授業もきちんと理解できるようになっていました。

そんな私は先生と会話する中で交換留学の情報をゲットし、あまり後先考えるタイプでもなく、初の海外にまだまだ興奮状態だった私はまた他の国に行ける!という気持ちだけで勝手に申し込み、両親には事後報告。もちろん費用はかかっていましたが、正直いくらほど出してもらったのか…。

とりあえず、日本の学年でいう5年生から6年生の1年間はカナダのバンクーバーへ。のどかなところで、ホストファミリーとブラックベリーを摘みジャムを作り、少し街中にあった学校へはバスで20分ほど揺られ、海外ドラマで見るようなじりじり~のベルが鳴る色鮮やかな校舎で過ごしました。

1年間カナダで過ごし、一度香港の家族のもとへ戻るのですが、そこから1年以内には日本に帰国することが決まっていましたので、その前に何とかもう一か国!

「日本に帰ったらなかなかもう留学なんてさせられないよ」という父との会話から当時友人がいたアメリカのニュージャージー州へ。滞在中は、現地の語学学校のようなところに通い半年過ごしました。

半年間の滞在を経て、家族とともに中学で日本に帰国。インターナショナルスクールと併設している学校に。高校もエスカレーター式であがれたのでそのまま進学。

生徒は純日本人から、ハーフ、純外国人と様々で、学校行事等も海外の学校に近いような学校だったため、帰国後も学校生活にギャップを感じることはなく毎日楽しく過ごしていましたが、長らく他人に干渉しない国々で過ごしていたので、日本人特有の人目が気になる、人目を気にする環境に若干の違和感を覚え、高校の1年間は逃げるようにオーストラリアへ留学しにいきました。ここが私の最後の海外居住でした。

帰国後は、高校卒業→大学進学→卒業。某航空会社に内定を頂くも、同時期に結婚出産育児を経験する運びとなり、今年30歳にして社会人デビューを果たす事となりました!!

私の壊滅的な文章能力を披露する初回となりましたが、今後しっかり勉強して参ります。

これから木、金曜日のブログを通して私の成長も感じていただけますよう日本キャリアセンターの一員として、お見知りおきください!!

よろしくお願いします!!

初めて作りました【自己紹介スライド】

初めて作りました【自己紹介スライド】




それでは、また明日金曜日!