我が心の稲盛和夫⑤シンガー・ソングライター長渕剛
「誰かのためにと思った時、自分の限界を越えられる」
を読んでの感想を書きます。
実は先月から、木鶏会という会を主催してます。
その場で感想文を発表するものを、どうせならここでお公開しちゃおうということで書いてます。
今回の感想文は、タイトルまでつけちゃってちょっぴり詩的です。w
走馬灯
幼少期から少年期、
青年期から壮年期の今まであったこと、
やったことが、走馬燈のように思い浮かんでは、
頭の中を走りまわる記事だった。
例えば、
長渕剛さんが桜島ライブを成し遂げた47歳、
つまり今年48の私にとっては昨年が同じ歳だったが、
この10年取り組んだキャリぷらという事業を、
持っていきたいところまで持っていけた。
そんな一応の達成感があった。
また、東北の震災でいてもたってもいられなくなった長渕さんが、
一念発起して松島基地で激励ライブを行ったとき、
私も同じような気持ちで一念発起してキャリぷらを立ち上げた。
そこから10年、
「目の前に倒れている人間がいた場合に、知らん顔する人間と手を差し伸べる人間、どっちが美しいかと考える間もなく、手を差し伸べるのが人間なんだ。」
という記事にあった稲盛和夫さんの言葉の通り、
理屈抜きで人生の岐路に立つ学生と、
加えてともに働く仲間たちを、
そばで励まし続けられるビジネスモデルをつくることができた。
しかし、その無数の経験や思い出の中に、
ひとつだけないものがある。
長渕さんの言葉を借りれば、それは、
「親父」と「親父のような存在と呼べる人」だ。
私にあるもの、そしてないもの。
その輪郭が走馬燈の灯りに照らされ浮かび上がり、
その薄灯りの向こうのほうにまた、ぼんやりと、
未来と、今なすべきことが見えたような、
見えなかったような。
以上です。お粗末様でした。